死を描くのではなく、生き抜くことを描く、韓国映画の力
「新感染半島ファイナル・ステージ」
とにかく面白い、ゾンビだらけの韓国からお宝を奪取して脱出する、ただこれだけの映画、主人公や登場人物たちの深い過去はたいして描かれない。
言ってみれば、ほぼほぼ普通の人々がシンプルに生き延びるために頑張る。
しかしそこには一つ信念のようなものがあって、生きる目的が卑しい人間、他人を出し抜き、他人を殺すことによって生き延びようとする人間は最終的にゾンビ化していく。この事実が面白い。
人を殺すことだけで生きている存在、それこそがゾンビなのだと暗喩しているのだろうか。
あと、見ていてハタと気づいたのだが、死ぬことに対して、悲しみはあるもののそこに哀れさとか美しさがあまり溢れないのが韓国映画なのかもしれない。
パラサイトでも妹が死んだことには触れるモノの、そこにカタルシスは何もなかった、それよりもどんな状況であれ生きることに固執する姿が描かれた。日本的な考えだと、どうしてもどう死ぬか、死にざまというものを追い求めてしまう。醜く生きるくらいなら死を選ぶ。
しかし、死は死であって美しいものではない、泥にまみれたって生きることが美しい。韓国にはこの思想が強く、その美しさが今強いのかもしれない。
どちらが正しいという問題ではなく、それが今の時代なのだろう。面白い。
そういう意味で韓国映画における食事シーンというものは美しく描かれない、恐らく生きるための手段である食事に美意識はいらないのだろう。日本ではこの食事が最後になるかもしれない、ならば美しくあるべきだ。一期一会の食事という考え方があるような気がする。
どちらの美悪が時代にマッチするかなんて関係ない。
どちらにせよ極めたものが面白い、中途半端は面白くない。
生きるのに必死な人々を描いた新感染、特にイケメンも美女も出てこないのにこんなにも面白いなんて、韓国映画に嫉妬する。
しいて言えば子役の二人、イ・レとムン・ウジンの演技はナチュラルでありながら印象深く、こういう子役が存在する時点で、韓国エンターテイメントの層の厚さと未来がうかがえる。
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